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人生を短く語る

  • 1950年1月20日、東京の新宿で生まれ、9歳まで、新宿から一駅の初台で育ちました。父が、戦争から帰ってきてGHQに勤務していたことから、私の人生の初めは、アメリカへの羨望から始まりました。その羨望は、団塊世代共通の経験と思います。

    団塊世代の多くは、知らず知らず、アメリカ的豊かさと自由を求め、大量生産大量消費の歯車になって、気づいてみると、集団に埋没しがちな、謙虚な日本人として半生を送ってきたものと思います(拙著「ワシントンハイツ横丁物語」NHK出版1993年 参照)。

    練馬区上石神井に引越し、区立上石神井中学校を卒業、都立西高校を卒業。そして、東京大学教養学部で国際関係論を専攻し、卒業と同時に、厚生省(現 厚生労働省)に入りました。大学では、全共闘の討論に馴染めず、実社会に出て、真実を知ろうと考えました。

    厚生省から派遣されて、ミシガン大学大学院で行政学修士を取得し、アメリカの実践的学問に大いに刺激を受けました。同時に、ウーマンリブの最盛期にあって、同級の女子学生の積極人生に感化されました。

    その後、私は、厚生省の国際部門に多く関わるようになりました。
    1980年代には、ユニセフ(国連児童基金)の中北部インド事務所計画評価官に出向し、3年間、医療福祉の開発援助に携わり、日本の国際社会での役割が、私のテーマになっていきました。(拙著「なぜ・いま・インドに」雪華社1986年、「インドから考えるアジア」学生社
    1988年 参照)


    厚生省に戻り、児童家庭局の企画課長や社会援護局の企画課長を務め、学童保育の法制化を決めた児童福祉法の改正、福祉の措置から契約を導入する社会福祉法の立法に携わり、制度が人々の行動を変え、また、人々の幸福(不幸)にも繋がることを実感しました。

    人事の一環として、山口県副知事に赴き、3年余、地縁血縁のない未知の所で、地方行政に携わりましたが、もっと人々の声が聞こえるところで制度作りをすべきと考え、退任後、政治を目指しました。山口県で、衆参2度の国政選挙に敗れ、いったん夢から遠ざかり、オーストラリア国立大学パシフィックアジア研究大学院で、国際学修士を修めました。日本で、ビジネスに就きながら、再考し、もとからの居住地である茨城県から、再び国政選挙にチャレンジすべく、民主党茨城県第6区総支部長に就きました。

    現在は広い関東平野を駆け巡り、千の声を聞き千の風になって改革を実現しようと活動しています。
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